生き方
私は
人から馬鹿にされないように生きてきた。
馬鹿にされないことが良いことだと
本気で思って生きてきた。
でも、
馬鹿にされないってことは、
私は馬鹿にされるべきじゃないっていう
信念を更に塗り固め、
その信念を全うすべく振る舞い続ける
無理な自分を形作り、
その形作ってきたものが、
いかに嘘の自分かということを
ある時、痛切に思い知らされる
ことがあった。
そして、
その痛切な感覚は、
惨めで、情けなく、
とても悲しくて、
存在さえも消してしまいたいほどの
恥ずかしい自分という存在を浮き彫りにし、
丸裸にし、
あろうことか、
丸裸のまま
深い深い暗い穴ボコに
私の生身全身を
スッポリとガッチリとハマらせてしまった。
身動きの取れない苦しさは
生き苦しさそのものであり、
その生き苦しさが
永遠にこれからもずっとずっと
続くような気がして、
来る日も来る日も
空を見上げて
恐怖を少しでも感じないようにして
生きていた。
苦しい。苦しい。苦しい。
恥ずかしい。恥ずかしい。恥ずかしい。
何年続けただろうか?
でも、
長年 誤魔化し続けた人生からの脱却は
容易ではなく、
容易ではないからこそ
生き苦しさは更に続く。
振る舞うまい。
と思いながら、
振る舞う自分がそこにいて、
たまに
振る舞わない自分をエイヤ!と
勇気を出して表出しても、
振る舞う自分が即座にそれをカバーする。
苦しかった・・・
そんな時、
馬鹿にされる格好のチャンスが
やってきた。
その時に、ハッキリと、
「馬鹿にされた」気がした。
直接的に言葉などで
馬鹿にされたわけではなく、
でも、
態度や視線や表情でそれは分かった。
勘違いかもしれないが、ハッキリと感じた。
でもそれは、
結果的には
僕にとって素晴らしい体験であった。
刺さるような視線や、
退屈そうな表情や、
あからさまに不機嫌な様子や、
席を立って立ち去るさまや、
その時間は
とてもとても怖れていた
とてもとてもそうならないように
避けてきた
恥ずかしさと情けなさの境地。
取り繕うスベを一切なくした
丸裸の境地。
でも逆に、
暫くしてこうも感じた。
暗闇の丸裸と明るいところの丸裸も、
結局は同じ丸裸^_^
つまり、
丸裸でいいやんってこと。
丸裸は馬鹿にされる確率が数段に上がる。
かと言って、
私のことをよく見知ってくれている人は、
丸裸になった私を馬鹿にすることはなく、
私のことを見知っていない人が
丸裸になった私を馬鹿にする。
ならば、
そんなど〜でもいい人たちに向かって、
私は何の為に振る舞い頑張ってきたのか?
アホくさくなった。
以来、
誰かの為に振る舞うってことはあるが、
自分の為に振る舞うってことを
意識的に選別する癖もつき、
自然発生的に
自分の為の振る舞いが出そうになった時、
中途で止めることが
段々と上手になりました^_^
そして又、
更にもう一つの恵み。
それは、
自分らしく
自分らしく
自分らしく
と盛んに言う人々は、
素晴らしい自分
ってのや、
潜在している素晴らしい自分を探せ
っていうのを盛んに煽るけど^_^
そんなもんは
嘘っぱち。
自分らしさ
に特別なものを求める
自分探し
なんて実は間違っていて、
本来は、
そのまんまの私
言わば、
普通の私^_^
をどう生きるのか?
との葛藤である。
ってことに気づけた恵みが
今の僕にはとても大きかった気がします。
カウンセラーの鏡と言われる
ロジャーズでさえ、
(今はそうでもないのかな?)
彼の本質を読み解くと、
(私なりにね^_^)
いかに普通じゃない自分と葛藤し続けた
人生を歩み、
理論を懸命に体系化し、
(実は当時の既存の理論を
彼の視点で集大成したものだから、
完全オリジナルってのじゃないけれど^_^)
それは、
彼自身が救われる為の
苦肉の策で掻き集めた結晶であり、
結果、
死を間際にして、
やっと
普通に生きることの素晴らしさを
実感出来た
人生だったんじゃないのかな
って思えます。
(奥さんとの最後のエピソードは
泣けます(>_<))
ロジャーズこそが、
馬鹿にされまくってきて、
馬鹿にされまいと戦い続け、
結果、
普通に目覚めた人だと私は思う。
(下手したら、自己超越は普通ってことで、
ありのままってことね。神や宇宙と一体
ってこと^_^)
大いに馬鹿にされた方が楽ですよ。
正確には、
「馬鹿にされても良い 」という自分への許可。
振舞っても馬鹿にする奴は馬鹿にします。
素のままで人生を歩む時、
肩の力が抜けてきて、
本質的な自分の良さに自分で気づけます。
で、
下手したら、
その良さに気づいてくれる
誰かがいるかもしれない。
それでいいやん^_^
ってこと。
馬鹿にされても、
馬鹿にした人の何がしかの役には
立っているもの。
ビビらないで^_^