生き方
悲しみ
憎しみ、怒り
焦り、不安
そういった感情たちに私たちは浸ります。
私たちは、感情にとても敏感で、
感情を露わに出来るかどうかは
あまり関係なく、
露わに出来ない人の中でも、
内部では感情が渦巻いている。
そして、
その感情が(ネガティブな)渦巻いているのを
なんとか自分の中に落ちつける為に
思考というものを活用し、
その感情が想起する理由なりを探し
納得させようとする。
その過程で出てくるもの。
私は悲しいのだ。
私は怒っているのだ。
私は焦っているのだ。
(その理由は、〇〇だから。
その理由は、私が〇〇だから。
その理由は、あいつが〇〇だから。)
これをすると、
私たちは、自分をこう認識します。
私は悲しい人なんだ。
私は怒りの人なんだ。
私は焦りの人なんだ。
こうすると、
思考を発動し、理由なりを探す過程の次に
審判が始まります。
だって、
その感情を持ち続けるのは嫌だし
極めて不快だから。
自分への審判。他者への審判。
ひょっとしたら社会への審判、
世の中や世界への審判。
もしくは、神さまへの審判。
これらを心の過程で行うと、
審判というものは、
怒りやジレンマを伴いますから、
悲しみや焦りがキッカケであっても、
最終的には、
怒りを生み出していくってことに
繋がります。
又、
怒りというものの背景には、
順位や序列を伴いますから、
それは、
承認欲求という
しかも他者承認という
底無し沼にハマっていく伏線となっていく。
怒りは、
蝕みますよね。
心や身体をね。
だからそうなる前に、
未然に健康な心を
育成していきましょう。
じゃあ、
この最終の「怒り」にいかない
心の過程はどうしたら良いか?
それを考えていきましょう。
例えば、
「悲しみ」
を例にあげます。
悲しい出来事が起こりました。
理由を探します。
理由が見つかります。
そして、ここから。
私は今悲しんでいる。
だからといって、
私の全てが悲しみとは限らない。
私の一部に過ぎないもの。
そして、同時に重要な公式。
その悲しみにこう言ってあげる。
『大丈夫。
そこにいるのは分かっているよ。
大丈夫。大丈夫。分かっているからね。』
この
「悲しみ」の承認
ってことはとても大切。
承認されない感情は、
直線的に走ります。
感情の発露が出来る人はまだましかも
しれませんが、蓋をしちゃう人は
前述のように、出ないまでもシッカリと
内部にはある。
だから、直線的に走る。
それは、怒りへと変容し、
怒りは心と身体を蝕み、
怒りに抗えるうちはまだ良いが、
抗えなくなり、抵抗する気力もなくなった時、
こいつが一番怖いやつ。
そう。
無力感
という
とてつもない恐怖が訪れる。
人間は、
自分で自分をコントロール出来るもの
って誰しもが何となく思っている。
でも、
私も以前はそうであったのですが、
自分で自分をコントロール出来ないような
一寸先は闇みたいな感じを
経験をした人にはよく分かる怖さ。
自分が何も自分では出来ない状態。
まさに、
前にも進めないし、後ろにも退けないし、
真っ暗闇の中で、
ポツン一人座り込み、
頭を抱え、膝を抱え、ひたすらギュと
目を瞑らずにはいられない状態。
恐怖のどん底です。
心のバランスがガラガラと崩れます。
だから、
そうなる前に、
ネガティブな感情を認め、承認し、
自分の一部に過ぎないと位置づける。
一方、
長い間、
その感情に気づかずに、
ある日、何らかのキッカケで、
パカっと蓋が開くことがあり、
開いてしまった蓋は、
残念ながら、閉じることは出来ないし、
無理矢理閉じるべきではない。
そんな時は、
カウンセリングかセラピーのサポートを
是非受けてくださいね。
時間はかかるかもしれませんが、
必ず明かりは見えるはずです。
今回は、
あくまでも
これからの日々待ち受ける
私たちの感情の起伏に対処する方法です。
復習すると、
(ネガティブな)感情が生まれる。
その感情を認め、いることを承認し、
大丈夫だよと慰めてあげる。
そして、
その感情から思考に移行し、審判し出す
その前に、
自分の一部に過ぎないもの。
でも、決して疎かにしたり、
知らぬ顔をしたりすることのないものと、
自分のそれも大切な一部だと位置づける。
審判から怒りに代わるその前にね。
無力感は全てを奪います。
仕事も、家族も、人間関係も、
社会生活全てをね。
そうなって欲しくないからね。
このスベ(術)の習得。
是非お願いしておきます^ ^
追伸)
そもそもの感情で、
「怒り」が想起した場合は、
怒りの感情の裏側を見てくださいね。
その怒りは怒りではなく、
多分、悲しさや寂しさが大概だから。
そちらを見ていってあげるってことです。