愛
愛が欲しい。
愛が足りない。
愛して欲しい。
愛されたい。
愛したい。
とかく、
私たちは「愛」に翻弄されてしまいます。
私たちの愛の変遷は、
母親からの愛に始まり、
父親からの愛を経て、
兄弟姉妹の愛を習練し、
家族以外の愛に触れていくことにより
形創られていく。
母親からの愛は、
絶対的なもので、
慈しみと優しさと温かさ。
父親からの愛は、
規律的なもので、
厳しさと審判と承認。
兄弟姉妹からの愛は、
共に暮らし、
生きるものとしての繋がりや協調。
そして、
それらを経て、
家族以外の人々と私たちは徐々に
愛の紡ぎ方を学んでいく。
でも、
幸か不幸か、
愛に満ち満ちた自分を感じれる人は
圧倒的に少ないのは何故だろう?
幸をとれば、
まだ愛に触れていないから
触れる機会がまだまだあることを示し、
不幸をとれば、
これからもきっと私は
愛に触れられないことを
自らに烙印を押すことを示す。
どちらの人生を選んでいくかの選択を
いつも私たちは迫られている。
それが、
愛に翻弄されているってこと。
では、
どうしたら愛に翻弄されない自分を
形創られるのか?
っていうと、
答えは極めて簡単です^ ^
私たちは弱くか細い存在だから、
愛について悩む時、
必ず誰かのせいにする。
母親、父親、兄弟姉妹、知人、友人、
パートナー、我が子。
でも翻ってよくよく考えてみると、
誰かのせいにしながらも、
その実、
自分を一番憎んでいるってことに
思いが至る。
良い子じゃなかったかもしれない。
期待に背いた子だったかもしれない。
良い旦那じゃなかったかもしれない。
期待に背いた妻だったかもしれない。
だって、
父親がこうだったから。
だって、
母親がこうだったから。
とどのつまりがそこに行き着く。
変える方法が唯一ある。
唯、一つあるんです。
それは、
自分の中に
自分の母親を創ること。
自分の中に
自分の父親を創ること。
自分にとって、
自分が自分の母親であり父親である。
ってこと。
男にも女にも、
男性性と女性性があるのだから、
ジェンダー論は時代錯誤の発想です。
自分の中の男性性と女性性を
フルに活用すれば良い。
さすれば、
誰かのせいにしたり、
例えば、親の呪縛などと
いつまでも自分の人生を嘆いたり、
例えば、幼き頃の疎外に未だに恐怖を
感じたり、
そんな事は
自分を養育している自分の前では
ものの見事に消えていく。
自己愛
っていうのは
そういうもの。
そう思って生きてみな。
仮に毒親?なるものが
あなたの実親かもしれないけれど、
あなたの中にいる
あなたの創造したその親は、
きっと、
毒親なんかじゃないはずです。
手放す
ってのもそういうこと。
そう思って生きてみる。
と同時に、
頭の理解で済まさずに、
自分の中に自分の親を形創る
色々な作業が待っている。
ん?
その為に、
何をしたらいいかを具体的に教えて欲しい
ですって?
(>_<)
その発想が出てくるならば、
既に無理。
厳しいようだが
絶対無理。
何故なら、
今までそうして生きてきたから
今がある。
誰かに聞けば答えが得られる?
誰かに聞けば自分は変われる?
それは、
誰かのせいにすることと
全く同じ意味だから。
だから、
無理。
ご自身で、
ご自身の力で、
形創り。
顔晴ってください。
そのヒントは、
あらゆる所に転がっているはずですから。
顔晴って!
挫けずに。
愛という名のもとに、
表面の薄皮に
踊らされてはいけません。
自らを愛する責任は、
私たち、一人一人の中にあるのだから。