生き方
語源であるラテン語での
ego
は、
私
を意味します。
自我を意味するもの。
一方で、
簡略化されたエゴという名称。
つまり、エゴイズム(利己主義)と混同して
一般的にはネガティブな使われ方と
なっています。
それは、お前のエゴじゃないか 🗯
などと批判的に捉えてしまいますが、
エゴとは本来は、自我を現し、
自我を満たす為、確認する為に
利己的に働きかけるから
エゴイズム、エゴイストとなり
批判や否定を相手からもらう訳です。
極端にへりくだるのも同じ働きであり、
意見も言わず、相手に合わせ迎合する。
その実、内には憎悪や嫌悪を宿しながら
生きている人もいる。
その辛さもしんどさも、
ある意味ではエゴイズムと捉えても
良いかもしれません。
だって、
内に憎悪や嫌悪がありながらも
無理矢理に合わせてもらっていることに
気づいた人は悩むから。
何か、私がこの人に対して高圧的な態度を
取ったのだろうか?
何か、
私はこの人を抑圧しているのではないか?
又、
共感性の高い人には、
その憎悪や嫌悪。
特にご自身に向けられたものならば、
それらの葛藤や苦しみが分かり、
逆に、
余計にその共感力の高い人に気を遣わせる
っていうことも得てしてあるものです。
僕たちは、
自我を護ります。
そのバランスを無意識のうちに
取っています。
そのバランスは、
人それぞれであり、
全ての人が同じではない。
で、
人間関係が全ての人と上手くいくとは
限らないのは、
この
自我の無意識の調整の仕方や度合いが
合う人、合わない人がいること。
そして、
それぞれが
合うタイミングで出会っているか
合わないタイミングで出会っているか。
そこに尽きると思われます。
誰も、
自我を護ろうとする人を否定や批判はしない。
でも、
その行為が、
自分にとっての不利益や不平等などとなり
返ってきた時に、
自分の自我も調整する。
即ち、
その人も、
自らの自我を護っているに過ぎない。
よく、
宗教などで、自我を無くそう
っていうことが言われますし、
解脱などはそういった意味でしょう。
スピリチュアルで言われる
ノンデュアリティ(非二元)
ってのもそういうものですかね。
とかく、
自我というものは、
悪さもするだろうし、
迷惑もかけるだろうし、
疎まれもするだろうし、
でも、
自分の自我を護る為の
調整機能が誰もにあることに
間違いはない。
護り過ぎると、度が超えてしまうと
人間関係が上手くいかない。
かと言って、機能として護ろうと無意識に
勝手に働いているからどうしようも
ないのではないか?
修行して解脱して、仏陀になる?
ん〜
現実的にはとても難しい。
じゃあどうしたら良いのか?
とても困惑するものです。
私なりの見解での対処方法です。
まず一つは、
その捉え方は相手の問題であって、
自分の問題ではない
とすること。
だからと言って、
ワガママ、勝手気ままにふるまい
一切気遣いをしないという
極端なことではありません。
でも、
気遣いを例えしたとしても
思い通りの反応ではなく、
ネガティブな反応が返ってくることもあり、
傷つけるつもりがなくても傷つけたり、
怒らせるつもりがなくても怒りを買ったり、
それも、
相手が自我を調整する為の
働きをしているのだとして尊重する。
だから、
相手の問題であるとすることは
個人の尊厳を護るということであり、
こちらの自我を護るという
意味合いともなります。
勿論、配慮に欠けていたり、
意図的なものであったりは除外ですがね。
そしてもう一つ。
それは、
つらつら並べてきたこの文脈から
分かられるように、
自分が自我を調整するように、
他者も自我を調整している。
だから、
審判をしない。
ってこと。
繰り返しますが、
自分が不利益や不平等を被った時、
お前はエゴイストだと人は言う。
でも、
人は誰でも無意識に自我を調整しているもの。
で、
自分も無意識に調整していて、
他者に対して不利益や不平等を与えている
ことも沢山ある。
つまりは、
お互い様。
ってこと。
その為には、
自らの存在は、
絶対存在じゃなく、
相対存在として捉えることが
必要となり、
その一番、下位に属する概念が、
自分も他者も審判しない
っていうこと。
批判はしても、審判はしない。
(批判は必ず代替えが必要。
代替えなき批判はただの悪口。)
審判は、ジャッジですから、
優劣、正誤を伴い、
基準は自我となります。
で、
自我は前述の通り、
調整する機能を有しますから、
自分が正義で自分が正しいとして
護ろうと必ずする。
(自分が悪で、自分が悪いという反省も
自我の調整。自責も同じ。
バランスを取っているってこと。
それら全てが正義であり、それら全ては
正しいもの。)
だから、
審判をやめる。
ただし、
人間としての素晴らしい資質。
つまり、共生の概念から生まれた
社会生活を営む基準が必要となったから、
その為の
裁判官が必要となり、
エゴが行き過ぎればエゴイズムとなるから
ある意味、
歯止めである
スーパーエゴというものが生まれ出た。
それが、
超自我。
だから、
法律があり、モラルがあり、決まりがある。
そこに、徳性という道徳心が生まれ、
自我に取り込んでいく必要が
生じることとなった。
要約すれば、
自我を調整する無意識的な機能は、
発達と成長と教育が必要なものであり、
先ずは、
全人間がその機能を有しているという理解と、
先ずは、
相手の問題だと出来る自他分離の観点と、
先ずは、
自他ともに審判はしないという
聡明さと賢明さが必要だということ。
これらを駆使して意識して生きていくと
自我の発達、成長に必ず繋がり、
それが、自然や宇宙へと観念が至った時、
全体の中にいる自分という存在は
溶け込んで一部となる。
(一部は全体も意味します。
パーツではなくそのもの。)
そうすると
きっと誰もが、
解脱
して、
仏陀
となるのでしょう。
だって、
宗教的観点から言うと言うでしょ。
人生は修行の連続だって^_^
(決して苦行なんかではないと私は思います。)
*これらの一連の自我の調整を
自我防衛機制と呼んでいます。
ご参考になれば幸いです。