生き方
自分の排泄物は確実に自分の体内にある。
体内にあるうちは、
汚いものだという認識はあまり誰もない。
でも、
ひとたびそいつが外に排出されると、
途端に汚いものとして人は認識をする。
だから、
日本のトイレは水洗式だ。
(個性こそが大切だ!
なんて広まりと共に急速に発展した。)
なんて言う人もいるし、
アイドルはウ○チしない^ ^
なんて言う人もいる。
不思議だね。
自分のものなのにさ^ ^
自分は大切なんでしょ^ ^
自分を自分として大切にするっていう
風潮がある。
個性や個人を大切にって物心がついた時から
世の中はそう言っていた。
確かに大切なことに間違いはない。
間違いではないけれど、全てではない。
だって、
再三再四、書いていますが、
「自分」なんてものは、
その位置を決める指標の
一つに過ぎないものだから、
大切にする為の自分というものを探すという
過程に翻弄されてしまい
大切にするっていう肝心要が抜け落ちる。
「自分」なんてものが
しっかりと、明確に、そして、
めちゃめちゃ価値ある
光り輝くダイアモンドのように
絶対的なものとしてあるという幻想が、
翻弄の根本的な問題です。
前述の排泄物のお話に戻すと
それがよく分かります。
体内にあるものは自分のもの。
でも、
汚れた?ものは自分のものではございません。
だから、
素早く綺麗に流してしまいましょう^ ^
えっ?
自分を大切になんでしょ^ ^
ってこと。
自分って、一体なんだろう?
ってこと。
ここに気づけなけゃ
自分探しは当分続きそうですね(^O^)
自分という認識は、
意識
とも言え、
意識、無意識を科学的に解明出来る人は
世の中広しと言えどもどこにも未だいない。
多分、これからも科学的に定義づけることが
出来得る人は出てこないでしょう。
科学の限界がそこにはあります。
その科学的に解明され得ない
意識というものの中での
その位置決めをする為のものが、
「自分」
というものであり、
意識を認識する為に、
「自分」というものを
人は創り出していると言える。
だってさ、
これは経験しないと
分からないものだろうけど、
私は、
きっと死んだら、
きっと私というものを認識出来なくなり、
「自分」
なんてものはきっと無くなります。
それほどに、
曖昧なもの。
「自分探し」
ってやつをほどほどにね。
っていつも言うのはそういうこと。
自分ってのは曖昧で、
いい加減なものに過ぎず、
繰り返しますが、
一つの指標に過ぎないもの。
だから、
『私は、こういう人なんです。』
なんてものは、
ただの自分が思い、考え、
創り出した ただの一つの指標に過ぎず、
その枠にはめておいた方が
生きやすいから便宜上そうしているに
過ぎないもので、
結局は、
「私」なんてもの。
「自分」なんてもの。
はないのである^ ^
でも、
ない では困るから、
だって、位置が分からなければ迷うから、
自分
ってものがある程度は必要である。
ある程度ね。
その程度にしといたら?
ってこと。
(自分探しの)答えを探して生きるより、
いかに
他者と共存するかや共生するか?や
いかに
置かれている環境下で
適応するか順応するか?や
いかに
誰かに喜ばれるか?誰かを喜ばせるか?や
なんかを考えていった方が、
個性的や、特別な自分や、素晴らしい自分
なんて、
世の中のへんてこりんなものに騙されないで、
その為の
自分探しなんていう遠回りなんかをしないで、
充実した人生を歩めるんじゃないの?
ってね。
私はそう思うのでありますよ^ ^
ご参考まで。