ココロテラス:心理カウンセリング・キャリアコンサルティング大阪梅田[不幸さん。私はあなたのことが好き。2]

生き方


大変申し訳ありません。
昨日はバタバタしていまして
明日に続きを、としていましたが
遅くなり日をまたいでしまいました(><)
ホントすいませんです。
早速続きを書いていきますね。


さて、


不幸さんは

定義が曖昧なので一旦置いておいて、

不幸さんを

嫌なことや嫌な感じと同義に捉えたとして、

では、

一体どうしたらそれらの解消を図れるのか?

というところが前回の最後でした。


簡単と言えば簡単です。

難しいと言えば難しい。


シンプルに言うと、

嫌なこととして、

嫌な感じとして、


ただ淡々と受け入れる。

解消を図るとか無くそうとかと考えない。
(解消を図ろうとしないことが解消法)


例えば、


嫌な感じを受けたとします。

とても不愉快だ。

とても腹が立つ。


不愉快、腹が立つのは何故?


自分は不愉快であっては決していけない。

自分は腹が立つべきではない。


なんて信念があったりし、

逆に言えば、

自分は不愉快であってはいけなく、

自分は腹が立つべき人間ではないので、

嫌な感じを受けることは許さない。

だから、

極力避けたいのだけれど、

無頓着に誰かが地雷を仕掛けてくる。

こっちは、そうして捉まらないように

捕まらないように必死に

避け続けているのにも関わらず、

不意に唐突に人(他者)は仕掛けてくる。

だから、

余計に腹が立つ。

だから、

そんな頑張っている

自分なのに平気で踏みつけられた!

と(誰も)理解してくれないという

悲しさや寂しさがある。


現実は、


誰もがとか、皆んながとか、

地雷を仕掛けるってことは

まあ、そんなに多分ありません。

でも、

仕掛けられた。引っかかった。



本人は感じてしまう。


何故か?


その方が合理的だから。


自分は不愉快な時があっても良いし、

人生がずっと愉快なわけないしさ。

自分はたまに、

めっちゃ腹が立っても良いし、

ずっと柔和で穏和なわけはないし、

そんなロボット?

みたいなわけある??

そんな人間いる??


などと出来る為には、

不愉快を示さないといけないし、

腹が立っていることを表さないといけない。

でも、

それが出来ないが為に、
(わざわざ懸命に避けているというテイを
取ってはいるけれど)


嫌な感じを自らが探している。

いや、

自らが欲しているとは言い過ぎかも

しれないが、そんな部分もあるかも?


確かに意識的には欲してはいないのだけれど、


傷ついたんよ。そんな風に言われて。

そうかそうか、可哀想にな。

それはとても大変だったね。


を(心の距離の近しい人に)貰うためにね。


だから、

ずっと避け続けようとするけれど、

避けきれないで当たってしまうという

当たり前のことが起こる。
(この記事に出くわして、例えば
不愉快だとか、腹が立つなんて
ことがあったりすると、
それは、まさに
避けきれなくて当たっているってこと。
そう考えれば、単純に会話や発言や
生身の対人との
関係性だけではないってこと。
つまりは、自分以外の全ての物事
ってことになる。)


よくブロガーさんや、YouTuberさんが

言ってますね。

そんなに文句があり、

そんなに不快で腹が立つってコメントなり

投稿をしてくるのなら。


見るな^ ^


か、


直接言いにおいで^ ^


って発信するけど、

見るし、言いに来ないし、

わざわざ当たりにいっている。


それは、

匿名で攻撃出来て、

刹那的ではあるが、

自分を自分としての存在として

自分自身が認められるから。
(企業のポスターや車内吊りを見て
不愉快だ!憤慨した!と自分がというテイを
取らず、全ての人はきっと自分と同じように
そう思っているはずだ!とクレームを入れ、
はたまた匿名で投稿し、
企業が掲示を取り下げたりすれば、
自身の存在価値は上がり、
刹那の満足を得る。
正義の味方がそこら中に溢れかえっている。
正義の味方はそんなに必要ないのにね^ ^)


でもそれは、

あくまでも誤魔化した刹那の解消法。
(逆にブロガーやYouTuberは
そんな人の役に
一定程度は立っていると思えば良い。)


そう。

つまりはね。


自分を誤魔化さないで生きることを

徹底していくってことが

根本的な解決となります。

実は、

これはかなりしんどいこと^ ^


それは、

嫌なことや嫌な感じを受け入れ、

それを自らが認め、

その奥に潜む

自分の存在は決して軽視されるべきではない。

って信念をいかに緩めていけるのか?


軽視されることや認められない自分をさ、

そりゃ嫌だけど、

全ての人に重要視されたり尊重されたり

は当たり前に無理なのだから、

だからこそ、

重要視してくれたり尊重してくれたり

する人をより大切にし、

そんな人が結果として多くなるように

人(他者)に尽くし、

尽くしている自分を認めてあげる。

その認めてあげる過程では、

同じ轍を踏まないように、

尽くさせてもらっている。

活用させて頂いている。

を有し、

ギブアンドテイクに陥りそうな自身を

常に自戒する。

その覚悟と決意が大切なものとなる

ってこと。


不幸さんを好きなのは、


自分は大したことがない


って本心から思えないから

不幸さんを利用しているに過ぎず、


自分は大したことがない


って本心から思えれば、

不幸さんは不幸さんとしての

役割を果たすことは出来ないのだから、


そこに意味合いが大してなくなり、


淡々と、


不幸な出来事さん


としてだけで

終わらせることが出来るってこと。


エリスの詩をね。


私なりに解釈すると


そういうことかと感じます。


不幸さんを誰も望まない。


だから、


不幸さんにするか

不幸な出来事さんとするかによって、


幸せさん


がやってくる可能性は

180度違うんじゃないかな^ ^

そう思います。


自分は大したことがないと思えることが、

実は、

とってもとっても大したことなんよね^ ^

大したことないと頑張ることが

実は、

更に更に更に^ ^

大したもんだ。


ご参考まで。


ブログ投稿

お約束より遅い時間になってしまい

本当に申し訳ありませんでした(><)

どうぞお許しくださいませ。