生き方
日々の出来事に左右されないように
生きるには、
私たちはどのような精神性を獲得すれば
良いのだろうか?
良くない出来事や嫌な出来事に遭遇すると
私たちは誰しも不快な想いをする。
その不快な想いっていうものも、
長く続く場合もあれば、
日によっては一瞬で消え去ることもある。
何故このようなことになるのかに
ついてを考えると、
自分にとってのその時の
優先度
によって左右されていると
言えるのではないかと私は思う。
その優先度とは?
自分のその時にぴったりに
適した感情を優先しているってこと。
裏返すと、
そのぴったりに適した出来事を
探していると言えまいか。
例えば
今この時に、
あなたが報われないと感じて
生きているのなら、
報われない出来事を無意識に探し、
報われないという自分にぴったりの
出来事なのにも関わらず、
本当はそれでぴったりだから
問題はないはずなのに、
意識では、
報われないのは良くないことだという
自分なりの価値観があるが故、
報われない自分を揶揄したり
哀れんだりし、
嫌な感情を発動させている。
本当は、
嫌なのにも関わらずね。
この矛盾が私たちの課題であり、
誰もが抱える問題である。
人は、
矛盾に満ち満ちている。
報われたいのなら、
自分にとって、
報われるとは何なのか?
を先ずは考え、
自らを導かないと救われないのに、
報われたいのに報われないという自分を
肯定せんが為に、
わざわざ報われない物事に寄っていく。
そして、
報われない自分の
やっぱりな
を強化しながら、
そんな自分を形創る。
実に苦しいことだと私は思う。
では、
私たちはこの矛盾から
いかに救われるか?
この課題に挑んでみよう。
嫌な出来事、
不快な出来事に左右されない自分。
それを獲得するには、
俯瞰
すること。
つまり、
自分の感情とは、
自分であるという思い込みから
離れること。
存在と感情(思考)は別のもの。
つまり、
日々想起される感情に先ずは敏感になり、
その感情の原因である出来事の意味を
探したり、
それ自体をその感情の原因とすることなく、
ただ、
その感情を感情として認め感じること。
一緒になるのではなく、
一緒に横(側)にいる感じ。
そして次に、
その横(側)から離れて見る。
存在が自分を見ている感じ。
それだけでも
出来事に左右される自分が減ってはいくが、
更に、
これは前から書いてはいるが、
全体の一部だと感じること。
あなたにとっての全体は、
神でも宇宙でも自然でも魂でも
全体と感じられるものなら何でも良いのだが、
自分は、
その大きな存在の一部だと感じること。
で、
そう感じる為には、
今いる次元の自分を、
いつも優しく穏やかな
心根にしておかなければならない。
ただ、
間違えてはいけないのは、
優しくすると甘やかすは違うので、
そこが難しいから、
他者に優しくする
ということが、
自分に優しくするに比べ
比較的容易なことであるので、
オススメの方法となる。
他者に優しくするには、
優しく出来る自分があらねばならず、
だから、
他者に優しくすることは、
即ち、
優しくさせてもらっている
ってこととなる。
(押し売りは優しさでも何でもない。)
それは、
優しくさせてもらっているのだから
その代償を貰うってことには繋がらず、
これだけ優しくしているのに!!
ってのが仮に出てくると
全ての次元が低次のものとなり、
それは、
自己犠牲の上の
似非優しさ
ということとなる。
又、
全体の一部であると人がもし
本当の意味で思えたなら、
どんな物事や、
どんな人にも、
優しく寛容的となれる。
意図せず、意識せずにね。
何故なら、
その物事もその人も
全体の一部なのだから、
自分の一体だということ。
(罪を憎んで人を憎まずの感覚)
チャンクアップしていき
チャンクダウンをする過程を
(塊をほぐしていき次元を高め、
今の次元に戻すプロセスの繰り返し)
意識的に慣れるまで行うこと。
(時間はかなりかかります。念のため^_^)
怒らないようにしようとか、
物分かり良くしようとか、
悪口を言わないでいようとか、
感謝を忘れないでいようとか、
そんなレベルではなく、
(それはあべこべの理屈であり、
修養に過ぎない。)
高い精神性を持てば、保てば、
今まで反応していた
嫌な出来事や嫌な感情から
離脱することが必ず出来得ます。
その離脱とは、
繰り返しとはなりますが、
無くなるであるとか
無くすのではなく、
左右されない
ということを意味するもの。
私のセルフカウンセリング講座は
それを意図して行なっています。
自分で自分をカウンセリング
出来るようになること。
それが、
様々な課題からの解放の近道だと
私はいつも感じています。
自分が自分の良き理解者となって
頂きたい。
ご参考まで。
セルフカウンセリング講座