生き方
昔から言い尽くされた言葉として、
「隣の芝生は青く見える」
ってのがあります。
割と言い古されてはいますが、
頭ではそんなことは
分かってはいるし、
その意味合いも理解はしていても、
やっぱり比較もしてしまうし、
羨ましくもなってしまうって方
いらっしゃいませんか^_^
類似語でこんなのがありますけど
いかがでしょうか?
「我が家の米の飯より隣の麦飯がうまい」
まあ、
最近は健康食として雑穀米とかがあり
私もたまに食べますが、
麦飯はどうも(><)
矯正施設では、
麦飯と白米の配合したものが
出てくるんでしたっけ?
俗に言う
臭いメシ
ってやつ。
健康的ではあるだろうけど、
やっぱ私は苦手です。
で、
かくいう私も
誰かと比較をする時もありますし、
羨ましく思う時もやっぱりあります。
そんな時、
自他分離をし、
自分は自分
他者は他者
だと
例え線を引いたとしても、
その線を超えて迫りくる
嫉妬や
やきもちなんかが
押し寄せてきた時、
「隣の芝生は青く見える」
ってのよりも、
「我が家の米の飯より隣の麦飯がうまい」
の方が腑に落ちて、
たちまちの内に自身の心のザワザワを
鎮めることが出来得ます。
何故なら、
目で見るものと、
味わうものの違いがあるからで、
家に芝生はないからピンとは来ないが、
白米はあるから腑に落ちる(^O^)
ってこと。
自分ちにある白米よりも
隣のお家の麦ご飯の方が
美味しいわけないやん^_^
ってね、
本心から思えるからです。
つまり、
羨ましく思っている他者の食卓は
麦ご飯の可能性があり、
それは勿論、
そのお家にはお金が無い等の偏見でもなく、
逆にお金があるからこその健康の為の
麦ご飯であったとしても、
自分は白米の方が好きなのだから、
羨ましくも何ともない。
だって、
白米の方が好きなんだから仕方がない^_^
てことは、
他者の知りもしない食卓を
あーでもないこーでもないと
意味なく想像を巡らせるという
全く無意味なことよりも、
自分が食すこの白米を
いかに美味しくいただくのか?
の方が
余程大切だ!
ってことに気づけるってこと。
水の加減
炊飯器の選び方
その炊飯器の自分好みの炊き方調整
などや、
いつ食べる?
どのタイミングで食べる?
おかずは何にする?
汁物はつける?
お漬物は?
それらの方が、
あれこれ他者の食卓を想像するより
余程大切で、
極めて現実的。
幸いなことに、
どれだけ貧困を極めたとしても、
今の日本であれば、
お米には多分困らない。
(前に、生活保護絡みで
悲しい事件がありましたから
私が知らないだけかもしれませんが)
だからこそ、
このお米にまつわる言葉が意味を成し、
誰しもが活用することが出来得る。
それは、
目の前にあるもの(与えられたものも)
を大切に生きろよ。
目の前にあるもの(与えられたもの)
をより良く活かして生きるんだよ。
っていう、
当たり前だけれど、
ついつい忘れてしまいがちになる
私たちの誰もが持つ
歪な
「当たり前」の
巧みな
置き換え・すり替えマジック
から
素晴らしき「当たり前」
へと再び戻してくれる
誰しもの魔法の言葉になる可能性を
秘めている。
「我が家の米の飯より隣の麦飯がうまい」
良かったら、
他者比較で苦しい際、
是非今後、ご使用ください^_^
腑に落ち方が必ず違ってくるはずですから。
ご参考まで。