人は自分を属性に
ハメたがる。
分かり易いのが
血液型や星座。
本日の魚座は・・・
とか、
B型は・・・な性格とか、
(因みに私は魚座のB型です^^)
何だかハメると安心しますよね。
悩んでいる時なんてのもそう。
自分と同じ悩みの人の話を
聴きたかったり、
その悩みから脱却出来た方法を
参考にしてみたり、
心理カウンセリングや
キャリアコンサルティング
の場面でもそう。
属性別技法なんてものも
存在し、アセスメント(見立て)の
参照枠として使用してみたり、
一貫性を担保する為に使用してみたり、
とかく、
人をどこかにカテゴライズする
というか、一般化することを
僕らは好みます。
悪く言うと、レッテル貼りや
ステレオタイプや、偏見や先入観
なんて言葉で語られたりもします。
何故、人は、自らも他者も
この属性にハメたがるのか?
多分それは、
その方が、思考する上で
効率が良いから。
多分それは、
その方がしっくりきて
腑に落ちることが多いから。
多分それは、
分からないことに
気持ちが悪いから、
気持ち悪いことを
解消するがために活用しやすいから。
等々、
様々な理由があると思います。
ほんと知りたがりよね~
僕たち^^
属性って、
確かに便利ですし、
科学的な知見に基づくものも
多いから、一般化出来るし
効率的でもあり、
ある意味では、
属性をつまびらかにするために
科学は進化してきたとも言える。
でも、
でもですよ^^
それが何だか真実のように
私たちは擦りこまれていて、
私たちのこの不器用な脳は、
(開発されていない部分が
多数を占めるって意味で)
処理能力の効率化を優先するがあまり、
過度に何かに当てはめる方が
楽を選んでしまい
何でもかんでも答え探しをしてしまう。
(仮にそれが正しくなくとも)
【まあ、脳さん、
裏返すとホント賢いよね。】
で、
それが、
私たちを疲弊困憊させるという
皮肉を創造する。
答えが得られないのが嫌なのである。
答えがないことが気持ち悪いのである。
答えがないと不安なのである。
という感情を喚起させ、
だから、
答え探しを容易にする為に、
属性を活用している。
答え探しをしない方が良い
というつもりはありません。
ただ、
答えが見つからないものに対し、
そないに過度に恐れなくてもいいやん
って思うだけ。
答えがないを毅然と受け入れて、
気持ち悪いその状態を容認し、
そんな存在の自分を
ただただ認めていくってことも
やっぱり大切なことなんじゃないかな
って思います。
不完全をいかに愛すことが出来るか?
完全さを追い求める自分という存在を
いかに俯瞰で見ることが出来るか?
そして、
疲弊困憊する要因となる
自身の自我というものを
いかにいなしていけるのか?
もっとベタに言えば、
アホはアホでええやんってこと。
賢しこぶる自分を恥ずかしく思えってこと。
今の世の中、
みんな、訳知り顔の
物知りおじさんやおばさんで溢れています。
(まあこれも私がステレオタイプやし、
訳知り顔のおじさんであるのかもしれませんね。
いわゆるブーメランってやつね^^)
又、
堅実で知的で、
賢い若者もたくさん活躍していて、
世代間ギャツプやなんじゃら
小難しく時代背景の違いなんぞを
のたまい得意げに解説する人もいます。
そないに正解が必要なんでしょうか?
多様性を真に認める文化を創造したいなら、
正解はその人の正解であるで良いのでは?
(そういう意味では法も万全とは言えませんし、
社会を維持発展させるには、ある程度の
枠組みは必須ですから、
そこにも課題が存在します。)
最近、本当によくそう思うんです。
話がズレましたから戻しますね。
長々と書きましたが、
結論としては、
属性
っていうものに
捉われては
疲弊する一方だってこと。
あくまでも、
参考に過ぎないってこと。
答えの無いものを潔く認めること。
その恐怖に打ち勝つこと。
無知は罪悪って言葉、
私は大好きで多用しますが、
無知の知とは、
真偽や、正誤ではなく、
そんなものを超越した
自身の在り方だって理解をしています。
私は、
アンポンタンで、間抜けです^^
それを容認できるからこそ
人は生きやすくなっていく。
(正しくは、
容認するべく、それを認めたくないに
抗いながら日々努力している自分を
哀れに感じている。)
だから、徐々に
属性の呪縛から解放されていく。
ほんとね。
そう感じるんです。
ご参考まで。
津村健司