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快・不快(自我)


私たちは、誰もが

 

自我

 

というものを有していて、

 

それは、

 

自身の世界から外の世界を

 

見ているという機能性がある。

 

そして、

 

その機能性は、

 

多分に罰や報酬というものに

 

紐づけられていて、

 

多分にそれらに左右され、

 

それは言わば、

 

快・不快

 

とよって決定づけられることが

 

多いように思う。

 

 

自我にとって

 

快と感じられるものを選択し、

 

不快と思うものを排除する。

 

あるいは、

 

排除しきれないものには、

 

防衛機制を自身に備え、

 

巧みな調整をしようと試みる。

 

でも、

 

バランスよく調整出来得ない

 

事態になると、

 

過剰な防衛機制となり、

 

それはまるで、

 

風邪を引いた際に

 

高熱を発するが如く、

 

その高熱がずっと続く状態となり、

 

心のバランスを崩してしまう。

 

 

自我というのは誠に

 

厄介なものである。

 

 

私は思う。

 

自我があるから人は苦しむのでは?

 

自我があるから人は生き辛いのでは?

 

自我を失くすことは果たして可能なのか?

 

自我が見せるこの世界は

 

全てまやかしであり、

 

幻想に過ぎないのではないか?

 

ある意味の

 

宗教の成り立ちや、

 

存在意義にも通じるこの感覚は、

 

誰しもが

 

時たま感じる奇妙で、

 

そして、

 

あまり気持ちの良くない

 

感覚なのかもしれない。

 

又、

 

この気持ちの良くない感覚を

 

嫌うがあまり、

 

不快なものに感じるがあまり、

 

自我は巧みにカモフラ―ジュをし、

 

自我というものは大切なもんなんだよ

 

とか、

 

ほら、あそこには

 

甘く美味しい果実があるのだよ

 

とか、

 

絶妙な演出をし、

 

私たちを日常に引き戻す。

 

 

自我に、

 

騙されたまま生きるのか?

 

誤魔化しの生を生きていくのか?

 

それとも突き詰めて生きるのか?

 

どれも正しく、どれも間違い。

 

何故ならば、

 

これも自我の仕業だから。

 

 

まさに、

 

四面楚歌

 

だが、

 

 

私たちが少しでも生きやすくなるという

 

観点から言えば、

 

前述のような仕組みが

 

自身の中には機能として確かにあり、

 

それを、

 

自身がキチンと知っているということを

 

知るってことと、

 

同時に、

 

快不快に紐づけられているのだから、

 

快不快を自身の判断や審判の材料にしないこと。

 

 

この2つの意識で生きていけば、

 

 

割と、

 

つつがなくこの世を全う出来るかな

 

って思うのです。

 

 

私たちが

 

決まっているのは、

 

唯一、

 

 

 

 

ということだけ、

 

 

生きることは死ぬこと

 

 

いうことで、

 

それは、

 

自我からの解放を意味します。

 

 

それまでの期間の過ごし方ってのを

 

快不快で捉える自我の特性に操られるか

 

操られないかに、

 

生きる意味や生き方の変化が

 

生じることでしょう。

 

 

まあ、

 

小難しく書き連ねましたが^^

 

 

自我ちゃん自我ちゃん

 

私の中にある 自我ちゃん。

 

いつもいたずらばかりして、

 

でも、

 

懸命にいつも働いてくれいて、

 

 

本当にありがとう。

 

ちゃんと、

 

私はあなたの存在を

 

 

知っていますよ。

 

分かっていますよ。

 

 

これだけで、充分OK^^

 

 

苦しい時は、

 

是非お試しを。

 

 

ご参考まで。

 

津村健司