人間関係において、
自分自身を委ねるってことは、
飛び込むに近い行為かも知れません。
自身が委ねた結果、
裏切られたり、傷つけられたり、
そのような痛い記憶が
私たちの飛び込む勇気を萎えさせ
孤立させることも多くなる。
そして、
人はついつい
一人でも生きていけるや、
一人の方が楽だや、
一人で上等などと、
本心でもない価値観を持ち
(持ったふりをして)
自己欺瞞を増幅させることが
多いのだが、
その実、
寂しい、悲しい、侘しい、やるせない
という両価的な想いに苛まれる。
そんな人はよくよく考えてみて欲しい。
前述の
裏切られたり、傷つけられたり
という痛い記憶が植え付けられた
原因を。
勿論、相手の問題もあっただろう。
でも、果たしてそれだけだろうか?
見落としがちな肝心なところが
抜けている場合がほとんどである。
それは、
委ねるということは、
委ねられるということを意味し、
対人関係の均衡はそうして図られる。
ということを知らないこと。
もっと言えば、
人の幸せは、
委ね、委ねられるという
安心で安全な環境であり、
それを根底に様々な活動が活性化され
相乗効果を生んでいく。
ってことを知らないこと。
果たして、
委ねる一方ではなかったか?
そう自問自答することが必要であろう。
検証することが必要であろう。
いやいや
チャンと委ねられていたよって?
どのように?
そして、
ちゃんと委ねられていたと
確信するならば、
では、
どのように委ねられていたものを
相手にちゃんと返していたのか?
具体的には?
それは、・・・。
その答え ・・・ は、
物理的なものがほとんどで、
そこに多少の心からの想いはあったにせよ、
本当の意味での心の委ねに対しての
返報ではなかったというところが
実際のところであろう。
つまりは、
相手のニーズではなく、
ただの自身の価値観などに
裏打ちされた頓珍漢なもの。
だから、
委ね
という私たちにとっての
貴重な資源を失することとなった。
委ね、委ねられる関係性というのは、
意図や意思がそこに必ず必要です。
自然発生的に備わっているものでは
決してありません。
ごく短期的にそれは見受けられたりもするが、
長期的なその関係性を構築していこうとか、
維持していこうとかをするには、
必ず、
意思がいる。
その意思とは、
多分、
愛。
それは、
自分に対してと、
相手に対しての愛。
愛は飛び込むものであり、
溺れるものでは決してなく、
表層的には、
愛は与えるからこそ得られるものであり、
本来的には、
与えたいから与えていると感じるもの。
だから、
裏切りや不信や、傷つきは無用なものとなる。
よって、
委ねられる自身を創造することは、
委ねれる環境を創造することとなり、
委ねれる環境は、その権利?を行使するか
どうかの判断だけであり、
自身にとっての心に及ぼす
あらゆる負担は極めて大きく
軽減させるものである。
そして、
愛とは、
様々な種類があるものであり、
そこには、
別離の愛
手放す愛
ということもあるということを
私たちは肝に銘じることも必要であろう。
愛の概念を磨き、
委ねられる自身の創造と、
委ねれる環境の構築のよる心の安定。
この3つを成し得た時、
人は幸せの入り口の第一歩に
立つことが出来得る。
そう私は思います。
その為にはさ、
関係性を結ばなきゃね。
誰かとね。
そもそも論^^
ご参考まで。
ココロテラス
津村健司