審判と判断の違い
皆さんは
どう捉えていらっしゃいますか?
辞書を引っ張ると、
判断とは、
ある事柄について、
考えを纏めて定めること。
そして、その断定した内容を
意味します。
一方、
審判とは、
ある問題について検討し、
その是非や適否などについて
結論を出すこととあります。
よく似てはいますが、
明確に違う点があります。
それは、
辞書の引用を繰り返しますが、
判断は、
組織なり、個人なりが、
ある事柄について考えを纏めて定める。
審判は、
組織なり、個人なりが、
ある問題について検討し、
是非や適否などについて結論を出す。
並べてみてよく分かるのですが、
判断は、ある事柄というものに紐付けられ、
審判は、ある問題に紐付けられるという点が
先ず違います。
そして更に、
審判は、それが問題であるという前提が
あるからこそ、
是非や適否などの2者択一が紐付けられ、
明確に結論を出すという
いわゆる
ジャッジをする必然性が生じるという点。
だから、
裁判に使用される言語となっているのでしょうね。
そして、今回、
問題視する点はどこにあるかというと、
それは、
ある事柄と、ある問題という点により、
判断と審判に思考の行為が
変わるのでしょうが、
私たちは、ついつい自身の価値観で
全ての事象を捉える癖があり、
そして、
その価値観に事象を当てはめる癖もあり、
自身の価値観に照らし合わせた際に、
価値観に照らし合わせているが故に、
この
ある事柄を、単なる事柄として
捉えるのではなく、
ついつい問題として捉えてしまい、
画一的な行為となる
審判にしてしまうという
特性を持っています。
言わば、
判断という考えを纏めるという
行為よりも、より効率的で、
ある意味の(思考上の)
簡素化された(2者択一的な)
審判の方が楽
を選んでしまうことが多い。
だから、
自身で考えての判断という行程が
煩わしいから、他者の(大勢であればるほど)
意見に左右されての審判に、判断という行程を
他者に委ねて乗っかってしまうということが
起こる。
そして、それは、
誰かを裁くという快感を強化し、
その快感を強化すべく、
裁くことの出来る対象を常に
探索せざるを得なくなる。
しかも、匿名で。
これが、ネットでの弊害であり、
見ず知らずの他者を平気で傷つける
けれども、その他大勢なので罪悪感も
感じず、
いそいそと又、
審判する対象を探し、
有する欲望は更に強化され、
人格の否定や
自尊心の崩壊を企図した
残忍性を帯びていく。
(そのことに気づかない。
何故なら、自身は審判者だから。)
私たちの日常で、
私たちの身近で、
職場で、
学校で、
家庭で、
毎日毎日、
来る日も来る日も
行われている。
その行為は、
虐めの形態にとてもよく似ていて、
ただ何となくが世の中に溢れている。
(虐めそのものといってもよいだろう。)
『表現の自由」とう名における
憲法の保証もあり、
なかなか法整備もままならない現状、
審判ではなく、せめて判断をが、
喫緊に求められる時代だと思います。
他者を審判するということは、
自分自身をも審判しているってことに
誰しもが気づく必要があるでしょうね。
その自身への審判に苦しむ人々が
多いことも現実です。
何故なら、それは、
自分で自分を審判するのだから、
そのような審判をしている自分が、
他者を審判するのは至極当然である。
という思考過程を獲得している。
つまりは、
自身を審判することに、
深く苦しんでいる。
ってことであり、
その苦しみからの解放は、
自身も他者も審判しない
ってこと。
この一択のみです。
苦しい方は、
やってみて。
ココロテラス
津村健司