とかくこの世は
思い通りになりません。
思い通りになるのが
ストレスのない生き方かというと
果たしてそうなんだろうかといつも
思います。
何でもかんでも思い通りになる人生
つまんなく感じるのは私だけでしょうか?
適度に思い通りに、
適度に思い通りにならない、
そのバランスがかなり大切ですね。
自己有能感や自己有用感等が、
私たちには程度の差こそあれ
備わっていて、
それらが、
思い通りになることを渇望させます。
そして、
その自己有能感や自己有用感なりが
充たされないが為に、
思い通りにならないことに対して、
焦ったり、憤りを覚えたり、
誰かのせいや環境のせいにしたりして
お茶を濁そうとしますが、
その調整が上手くいかないと、
その自己有能感や自己有用感なりが
低下し、更に感情が鬱々としたりして、
自己否定や自己嫌悪といった心的負担が
生じていきます。
で、
それらを避けるためには
どうしたら良いかと言えば、
逆に考えると、
思い通りにならないことが当たり前
と、
ハナからその前提で生きた方が
振り回されずに済むし、
もっと言えば、
自己有能感や自己有用感等が
自分は低いんだという自覚を持って
生きたとしたら、
同じように、
思う通りにならないことによる
様々な波及効果は低くなることでしょう。
そしてそれは、
自分の価値がなくなってしまう
という別の問題を定義しますが、
そもそも
自分にそんな価値はない。
あるいは、
自分も他者もそんなに価値はない
という前提を
創造することも可能となります。
で、
そして今度は、
人間に対する価値という感覚が薄まると、
対人関係に如実に影響したり、
自他共に軽んじたりすることにも
繋がりかねず、
社会生活が上手くいかない
社会生活に適合しにくい
といった問題が生じます。
で、更に、
そうすると、
こんな前提が想像出来得ます。
価値、存在
とは、
何かを成し遂げるや、
何かに働きかけるや、
という因果律的なものではなく、
そこに居る。
そこに在る。
だけ、
それだけが、価値や存在である。
ただただそこに居てりゃ良い。
ただただそこに在れば良い。
その他大勢の内のほんの一つの
小さな小さな存在であり、
誰かがその存在を認めれば、それは存在であろうし、
誰かがその価値に気づけば、それはその価値となる。
ただそれだけのこと。
だから、
ただただ
を自覚すれば、
世の中がどうであれ、
他者がどうであれ、
お前は価値がないと言われようが、
お前の存在は希薄だと言われようが、
それは、その相手の価値観であり、
それは、その相手やその組織なりの
仕組みや都合に過ぎないことなのだから、
何ら気にすることも無くなります。
仮に、
このような機序を経て、
モチベ―ションが上がらずに
廃用性的になったとしたら?
こう考えます。
人は誰しもに、
何れ、機能の衰退は嫌が応でも
訪れます。
遅かれ早かれね。
ただそれだけのこと。
そして、
機能の衰退とは、
決してネガティブな意味合いだけとは限らず、
機能の衰退があるからこそ、
自身にとっての自明の真理を得られるという
最大のメリットを享受出来得ます。
それは丁度、
冒頭の
思い通りにならない
は、
思い通りになるの裏返しでもあり、
それぞれの側面からの
それぞれのメリットを多様に見ていけば
(思い通りにならないことにも
実は数多くのメリットがあるのだが、
人は、結果を優先するという、
自身の価値観や、
下手をすると、
自身の価値観だと思っているものが、
その実、自分以外の他者の価値を
植え付けられていたり、与えられたりも
しているので、そこになかなか気づけない。)
分かるように、
極めて両価的なものである。
表と裏
陰と陽
それぞれが存在し、
それぞれの価値に対する意味付けがある。
但し、
意味付けているのは人間であり、
その人間とは、
自分でもあろうし、他者でもある。
ココロテラス
津村健司