比較

比較


他者と比較するから

人は伸びる。

他者と比較するから

人は心を蝕んでいく。


どちらも真実。


憧れや目標とする他者がいれば、
そうなりたいという欲求が、
私たちの強力な動機づけとなり、
努力はネガティブなものではなく、
決して辛いものでもなく、
極めてポジティブな一つのプロセスと
して私たちを成長させる。
それは、例え、
憧れや目標とするものが
得られなかったとしてもである。

だが、

憧れや目標とする他者や、
又は、憧れや目標に挫折をしたり、
頓挫したり、諦めてしまったり、
叶わなかったり、
はたまたそもそもが、
憧れや目標自体を持ち得ない時、
例えばそれは、
自らが持ち得ない才能や、財力や、
ポジションや、肩書きや、容姿や、・・・
つまりは、そんなこんなの
人間が持ちうるであろう
本当のところは、所有してみないことには
実際には分からないのだが、
ある種の所有欲が充たされるに違いないと
思われる具現化したものや
顕在化したものに対し、

持っている
持っていない

という二分化したものを
人間の価値として

比較

をし、

自分自身を下げてみたり、
下げるだけならまだしも、
持っている人の
足を引っ張ったり、批判したり非難したりを
しがちとなり、
自身の精神を徐々に蝕んでいく。

憧れや目標が、
見事なまでに、
妬み、つらみ、そねみ、
嫌味、やっかみ、僻み、
そして、

恨み

になったりもする。


所有欲

ってのは、なかなかに消せません。

でも、

消さなくとも、

自分自身が

所有欲求を有している存在なんだと

認識することにより、

減らすことは出来る。


そして、


減らすことが出来ると、

当然ながら、


他者と比較する

必要性はなくなります。


必要性がなくなるということは、


手放すものが、増えるってこと。


で、


手放すことが増えるってことは、


身軽になれるってこと。


そして、


身軽になれるってことは、


自由


ってこと。


よくよく考えてみたら分かること。

それは、

沢山持てば持つほど、


不自由

が付きまとうってこと。


不自由に生きたけゃ

他者比較をし、

沢山、所有すれば良い。


自由に生きたけゃ

他者比較を極力抑え、

そうすりゃ必然的に

所有するものは減っていき、

必要最小限となり、


結果、


自由


となる。
(完全自由はさすがに無理だけどね。)


自由

は自分で選ぶもの。

かたや、


不自由は

誰かに巧妙に選ばされているもの。


違う??

ホントに??


その所有したいっていう

妬み、つらみ、嫌味、そねみ

なんて、ヤなもの達は、

本当にあなたの望む

あなたなのでしょうかね?

そして、それは、

あなたが自分で

本当に選んだ道なんでしょうかね?


私は違うと思うんだな〜 ^_^


誰かに選ばされた結果だって思いますよ。

だってさ、


誰も、

心を蝕んで生きていきたい

なんて思って

生まれてきた訳じゃないからさ。


自由に生きるための責任は、


必要以上に持たないことを

自身の責任とする。

さすれば、


比較


っていう煩わしさから確実に解放されて

いくもんです。


ご参考まで。


ココロテラス

津村健司