生きることの考察 (悩みの正体)


早速ですが、

 

「生きる」

 

ってどういうことでしょうか。

 

複雑に入り組んだ現代社会。とても生き辛く、悩み多き時代。 我々はこの苦悩に満ちた時代にいかに立ち向かい、生を全うすることが出来るのでしょうか。古来よりの永遠のテーマです。

 

ただ、究極にシンプルに考えてみると、生きるとは、

 

呼吸・食事 ・排泄・睡眠

 

のサイクルのなせるもの。いたってシンプルな過程。そして、よくよく考えてみるとこれ全て、自分の意思ではなく、私たちの身体のニーズなんですね。ということは、何故我々が悩むのかというと、それぞれの人々に思考 (脳) が存在することにより実は自ら能動的に進んで悩んでいるといっても過言ではないかもしれません。(悩まされているという見方も出来ます。誰に?そう自分自身に。)

 

生きる行為そのものは極めてシンプルなのに、生きることが辛くしんどいなんて、何故複雑になるのでしょう。その理由は人それぞれで、一見、外的要因が全てのような気がしますが、外的要因から受ける反応、つまり、物事の捉え方のクセにより悩んでしまっているのが実際です。何故ならば、同じ事象なのに悩む人と悩まない人、気にする人と気にしない人分かれるからです。そう、全く同じ出来事を経験したとしても捉え方一つで、人って違う受け止め方をするんですね。だから、そこに自らが気づき抗い、修整していくことも勿論肝要なことです。でも、逆に言えば、その過程に人は疲弊し、変化出来ない自分を否定し、否定や諦めなどという逃げ道を創り、巧みに自身を守っている。(本当はこの機能に気づければ、素晴らしい機能を私たちは有していることに対する感謝しかないはずなのですが・・・) つまりは、自身にとっての不都合な出来事を受け入れる為、巧みに合理化しようとする過程が悩みという現象であり、自身の思考の存在を確認している作業であり、それが、生きている即ち、自分という存在性の確認をいつもしているという複雑怪奇な人間というものの本質のような気がいたします。

 

そこで私はこう思うのです。

 

だからこそ、シンプルに、ベーシックに、ファンダメンタルに、考えるという行為ではなく、自身の身体を脳で感じることがとても必要だということを。

 

ポジティブとかネガティブとか、生き方だとか考え方だとか、様々な複雑なことを一旦全て切り捨てて、たまには、シンプルに生きるということそのものにフォーカスしてみることをお勧めします。

 

自身の呼吸を感じ、食べ物を美味しく摂り、定期的な排泄をし、充分な睡眠を取る。これだけで充分、生きていると言えます。その中でQOL (クオリティオブライフ) の向上を少しでも図っていくことが、シンプルに生きるだけではなく、人間らしく生きるコツなのかもしれません。

 

知足安分

 

という言葉は、先人たちの智慧の凝縮された言葉だと私はいつも感じています。

 

生きる意味を考えるよりまずは、生かされていると感じた方が、人は幸せになれるのではないでしょうか。

そう感じます。